スタッフブログ
後藤 勝章
  • Thumbnail1996年以降・・・・今回はゴトウスバルの本社屋建設とアップル春日井中央店を紹介します。

    1997年8月にゴトウスバルの本社屋建設致しました。

    この本社建設は、弊社のあゆみにとって大変大きな出来事でした。

    当社の本社の所在は元カーコンビニ倶楽部の2階の事務所を使用していました。
    創業から32年経って業績も順調に向上してきたため、そろそろ本社屋を建設しようと計画に着手しておりました。

    その場所の予定地として自社物件である勝川駅前の土地(約600㎡)にて設計に入り、いよいよ確認申請の提出という段階で柏井町の地主さんが相談にみえて使用中の土地を譲りたい、との申し出でが有り購入することにしました。

    その時点で対面にAEON(旧SATY)の進出の噂が有り、もしそれが出来れば1等地なるから、そこへ本社建設と計画を変更し直ぐ段取りに入りました。

    本社機能とアップル店舗の機能、そして社員が全員集合できる会議室の機能をもつ総合ビルの建設の入り約10ヶ月で完成しました。
    そして、上記年月に竣工式と共にオープンしました。
    竣工式では、当社の関係者が多数参加していただき多くの祝辞を頂きました。

    又、社員には、祈念講演会として田○真○先生に「積極的に生きる」をテーマ講演をいただき大変感動しました。

    同時期には、本社の建設の関連でアップル店舗「その名もアップル春日井中央店と銘名し」総合的に開発して当社の母店の役割の期待を込めて思い切った予算を計上して作りました。

    このアップル店舗の役割も非常に重要と考え当時のNO1アップルマン(現在の役員)である人材を店長としてスタートさせ出来るだけ早い時期に当社のアップルNO1店にしようとチャレンジしました。

    スタート後数年で社内では名実ともNO1店になりました。
    今後もこの店舗の役割としては当社のモデル&母店であり、そしてアップル加盟店のモデル店を目指して成長し続ける店舗であって欲しい拠点です。
    2011年7月には、更に使用面積が拡張でき現在では敷地内に3箇所の商談室とサービス工場も併設しております。
    営業メニューとしては、アップルの中心業務である車・買取の他に販売、キズ凹み直しのカーコンビニ、レンタカー、等多くのメニューに対応しております。

    今回はここまで・・・・次回をお楽しみに・・・

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  • Thumbnail1996年以降・・・・今回はアップル恵那店を紹介します。

    1996年12月のオープンしたアップル恵那店を紹介します。

    当社としては、アップル拠点展開を積極的に広げる為、取引銀行に物件紹介を依頼していたところ恵那のメイン通り(19号線)の角地を某銀行が紹介して頂きまして本社からは少し遠さを感じましたが、

    検討の結果店舗の開発に着手して1996年12月にオープンさせました。

    恵那店の特徴としては角地で敷地面積は広く2箇所の出入り口をもつ拠点である。

    この拠点の商圏は広範囲で、しかも山・川・田園風景の中にある、地方色豊かなお客様が多くこのニーズにあった対応が重要な拠点である。

    今回はここまで・・・・次回をお楽しみに・・・
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  • Thumbnail1996年以降・・・・ここから暫くは、中部地区のアップル拠点開発の続きを書きますが、これ以降紹介する店舗は現在操業中の店舗です。
    尚、今回はアップル可児店とアップル瀬戸店を紹介します。

    1996年3月にオープンしましたアップル可児店を紹介します。
    可児周辺の商圏は非常に期待できる商圏である、と社員からの情報から
    是非可児に拠点を開発したいと思い、不動産屋に物件探しを依頼していたところ現在の場所をどうですか?と紹介が有り現在の○○部長に検証してもらったところ、その近くに国道248号線のバイバスが出来ると聞き契約することにしました。

    間口は広いが奥行きが短い「うなぎの寝床」のような地形でしたがそこでスタートしました。その結果査定数は平均より多く予想通りでした。
    現在「H19年5月とH23年7月」の2回に渡り裏の地主の駐車場を専用利用のお願いに同意して頂いた為、拡張工事と店舗のリニューアルしました。

    次に1996年7月にオープンしましたアップル瀬戸店を紹介します。
    瀬戸店は、それまでの店舗開発と違い某社員が定年まじかに委託営業店にチャレンジしたい、と申し出が有り本人自ら場所探しを始め見つけた場所でスタートをしました。
    最初は一人店長で始めたが、数年経過した時点で病魔に侵され治りはしたが、一人では無理と判断し営業社員を雇用し二人で頑張った店舗でした。
    その後、数年の年月が経過の中でスタッフの入れ替えをし現在の店舗となりました。

    今回はここまで・・・・次回をお楽しみに・・・
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  • Thumbnail1995年頃の状況・・・C○A東京会場開発と日○自○車流○ネット○ーク㈱の掛け持ち作業に奮闘 その2

    C○A東京会場開発を進めながら一方ではアップル本部での役員会に参加し、各店舗の実績分析&本部運営とアップル拠点開発等の研究と実践も行なっていました。

    当初アップル本部の所在地は千葉県の行徳にありましたが、各役員が通勤に不便と言う意見が多く出た為に、暫くして東京駅のすぐ前の○○ビルに移転しました。

    お陰で大変便利のなりましたが、便利と引き換えに出勤回数が多くなりほぼ毎週の出勤が3日は関東での仕事となり名古屋から関東までの往復を繰り返していました。

    時には、C○A東京会場開発の仕事であり、時には、アップル本部での仕事と繰り返す日々で寝泊まりはホテルでした。
    お陰でC○A東京会場もオープンすることが出来アップルも店舗数が増加して行きました。

    但し、このような功績はアップル本部の役員でS氏の存在が大きく何処へでも行き極端に言えば「我武者羅」に行動する彼がいたから出来たと今さらながら感謝しています。

    そして私は、中部地区の拠点開発と、まさに二足+αわらじを履いている状況をこなしていました。
    振り帰って回想すると、この頃が自分の人生の中で最も忙しい時であったと思うところです。
    今回はここまで・・・・次回をお楽しみに・・・目次へ戻る

  • Thumbnail1995年頃の状況・・・C○A東京会場開発と日○自○車流○ネット○ーク㈱の掛け持ち作業に奮闘 その1

    アップルの関東組も2年程経過すると、業績もある程度起動に乗り関東地区にも関東の人達から、我々にも関係を密にできるオークションが欲しいと声が上がり1997年頃から候補地探しを始めました。
    オークションの立ち上げは業界に大きな影響を与えるため秘密裏に行わなくてはならない為、この作業もアップル本部の役員達が手分けして物件探しに奮闘しました。
    その行動は関東地区全体を動きまわったと言っても過言でない。

    一年位経過した時、ついに千葉県の昭南町に開発可能の物件があると情報をアップルの役員の一人がくれたが・・・・・・・
    それではと、実際に行政の関係窓口又は地主関係者に当たってみると、先ずは全く信用してないところから始まった。
    それは当然の事かもしれない。
    相手さんの考えでは大規模開発の申請では大規模の開発会社が窓口になることが当たり前と考えられている中で得体のしれない連中が直接に直談判に来たのだから・・・・・
    そこで私共は行政関係者には同県内に先行して開発したU○Sの話とC○Aの中部会場のパンフレットを持参し説明し、地主さんにはC○A中部会場への視察会を要請しました。
    数ヶ月経って私達が何物かが理解できたようで会ってくれるようになり条件等の折衝が可能になり提示された条件を1つ1つ満たしていった。
    そして、ついに1998年04月に株式会社C○A東京を設立した。そうした経緯で設立はしたが、内部の体制では紆余曲折があり最初に提案があった関東のアップルの役員達は資本金と支援はするが役員はやれないと言い出し結局C○Aの役員であった私共が役員をせざる負えない事になり設立当初の社長は私が担うこととなってしまった。
    開発に3年程経ってからの運営は容易ではなかった。

    今回はここまで・・・・次回をお楽しみに・・・目次へ戻る

  • Thumbnail1993年以降の状況・・・日○自○車流○ネット○ーク㈱創設当社のアップルもいよいよ関東へ進出

    関東への進出は、1990年頃私共が始めた車買取専門のアップルの噂が関東まで評判になったのか、関東から一人の紹介者が引率した中古車小売業者が数名来名し知りたいが教えてくれないか?と打診があった。
    私共スタートを共にした3社と相談した結果これは流通革命になるかもしれないと感じありのままを見せ語ったところ、その中の一人の方がそれは嘘だろう!そんなうまい話は信用出来ないと言い出した。
    信用出来ないと思うならやらなくていいじゃないの!とばかり返事を返したところ、すまん言い過ぎたすまんと誤りその後もう少し話を聞きたいとなった。
    そこでお茶でも飲みながらとなり、結果的には貴方達も関東へ出て一緒に立ち上げないか!となった。

    数日経過後、じゃ一緒にやりましょう!と中部で始めた3社の内2社と他の加盟店の一社が関東へ進出することにした。
    そのような訳ですから関東への進出目的は関東の業者の支援が主体でありました。

    1993年(平成5年)
    中部地区48店舗出店 関東地区展開を日指し、千葉県市川市に日本自動車流通ネットワーク(株)設立、その物件はビルイン方式で「本部の管理業務と店舗(直営)」が同席したものでした。
    その当時の本部設立の目的は中部地区の実績を踏まえ関東で旗揚げして将来は全国ネットと考えていました。1階が店舗で2階が本部の管理業務にスペースでした。

    関東支出にあたっては、日本自動車流通ネットワーク(株)が管理本部の役割を果たす必要からボランタリーチェーン(VC)本部として種々の規程を作成し、それ等のルールに沿った運営管理からスタートしました。

    当社は、初期段階から出資者&役員として参加して事業計画の企画段階から中部での経験を生かす方法で様々の提案しました。
    その中の1つのルールに加盟店別エリア分けが有り、当社は神奈川・東京都下・千葉県の一部をエリアとして決りました。
    準備に3ヶ月程掛かりましたがいよいよ店舗開発がスタートしました。

    当社が手掛けた関東地区の店舗は以下になります。
    流山店・行徳店・多摩生田店・東府中店・下高井戸店・渋谷富ヶ谷店・花輪IC店・府中本宿店・かしわ沼南店・八王子店・昭島店・四つ木店と12店舗を開発しましたが、その中で現在営業中の店舗は府中本宿店とかしわ沼南店の2店舗にし他の店舗は別の加盟店に譲渡し又は弊店しました。

    今回はここまで・・・・次回をお楽しみに・・・

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  • Thumbnailオークションオープン以降の状況・・・いよいよアップルの展開の開始

    オークションの立上から、1年後(平成元年)オークション事業は順調に推移して行ったが、小売中心の商売をしている立場で有りながら、一方ではオークションへの協力として出来るだけ多くの出品も必要である。
    その点を認識して、勉強会の時点にテーマであったもう一つの事業である、車買取事業の立上の必要性を感じ準備に取りかかった。

    理想的には、小売屋が小売屋の為のオークション事業がテーマだったから、C○Aの全役員会社が一斉にスタートしたかったが、各企業の事情もあってスタート当初は3社でスタート(同時オープン)した。店舗名は「アップル○○○店」時は、平成元年9月でした。

    上画像のロゴマークに位置が同時オープンした3店舗です。
    アップル展開についての感想
    1;当初、全国的にも買取チェーンを事業化している事を見聞した覚えが無く、初めての事でしたので心配しながらオープンしました。
    2;オープンは春日井・天白・豊田の3店舗が同時にスタート初期の目的のC○A支援についてはある程度自信が有ったが事業として特に採算が取れるか? が心配でした。
    3;オープン広告は中日スポーツの前5段の広告だけでしたがオープン後の2~3日は1日当たり電話が100~150本と対応が大変でしたと店長が言っていました。
    4;当社の創業春日井店の店長は、Y・T社員が担当したが、予想を超える反応に仰天した。
    5;オープンで自信を付けてからは、積極的に店舗展開をして以後は、小牧店・尾張旭店・多治見店・岩倉店と開発して行きました。

    これ以降は暫く店舗展開について書かせて頂きます。

    今回はここまで・・・・次回をお楽しみに・・・目次へ戻る

  • Thumbnail1985年以降の状況・・・役員はオープン日を含めて暫くはこんな事もやっていました。

    オークションの良し悪しは、まず出品台数次に成約台数です。
    何が何でも成功させたいと思って始めた訳ですから出品台数・成約台数の動向で一喜一憂していました。

    1988年05月に第1回オークション開催をしましたが、この時は3ヶ月も前からお願い営業しておりましたから目標をオーバーしましたがその後は徐々に出品台数が減り始めました。

    そんな時急いでとった行動は知り合いの会員に電話で出品のお願いする一方で積載車が到着する場所に役員が待機し積載車が来ると運転手に暑い中ご苦労さんと声をかけ荷下ろしを手伝い、ジュース等をサービスしここで一服してくださいと伝えへ出品ヤードまでの移動運転を手伝っていました。

    そうしたことを続けている内に積載車の運転手には評判が良くなって行きました。
    その他評判が良くなるだろうと思われることは積極的に行動しました。
    そのようなことが効してか月を重ねる度に業績は好転していきました。

    上画像は現在のC○A中部会場のイメージパースです。
    そして1年経過した頃、もうこの調子で推移して行けば起動に乗るだろうと判断し当初の懸案事項である小売屋さんにより良い品を集めて提供していくオークションにと取り組み始めました。・・・・それは・・・

    今回はここまで・・・・次回をお楽しみに・・・

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  • Thumbnail1985年以降の状況・・・オークション事業の立ち上げ

    前回では、オークション流通が、キャスティングボードを握った場合、どう乗り切るか?が、最大テーマであったからその続きを書きます。

    幾つかの提案の内絞り込んだ案は・・・
    ①オークション事業を自分たちで立ち上げること。
    ②オークション仕入に変わる仕入ルートの開発(ユーザー買取等)

    上記の2点に絞りさらにオークション開発事業に早速取組むことになりました。
    そこで各メンバーが持ちよった候補地の中で豊田に開発可能な用地があるという事で、各担当を決め早速開発に着手しました。

    当然ながら開発は難航し時には役所へ時には地主宅へ時には地元の議員などあらゆる関係者に合い折衝し、約1年位交渉&折衝が続いた。

    数ヵ月後ようやく許可が出され以後は、工事の段取り・システムの研究&契約 等、各役員が分担して進めたが会員開発だけは役員全員で各地域を回り飛び込み営業を行った。

    また既に開催しているオークション上へは直接出かけてパンフレット配りを行った。

     

    昭和63年に、現在のC○Aが誕生しました。

    今回はここまで・・・・次回をお楽しみに・・・

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  • Thumbnail1985年以降の状況・・・中古車の流通を変える、大変革の時代到来

    以前は専業店の仕入先は殆んどが新車ディーラーの下取車を一元管理している新車のディーラーの中古車部であり、そこに中古車販売専業店のオーナーが出かけていって中古車部の上司&担当者との付き合いが旨い業者は優先的に儲かる車を仕入れる事が出来るため、各業者は毎日ディーラー周りをしていました。

    しかし、この頃からから中古車の流通の有り方が大きく変化のきざしが現れだした。
    そのような流れを大きく変えた流通方法はオークション事業の急成長でした。

    当時の私は、仕入担当として急成長をしているU○Sオークションに参加していた時、
    小売中心の業者達がオークション主体流通時代の到来を予測して将来の小売業者に与える影響等を研究するグループの結束を呼びかけられ将来の事業の有り方はどう有るべきか?というテーマを基に毎週オークション終了後に場所を移して勉強会を実施しました。

    メンバーは、本音で話し合えるであるべきとの条件で企業機密書類まで見せ合えるメンバーに絞込み結果7社になりました。
    1度失敗した共同事業を再度チャレンジする気になったのは、メンバー選びが大切なことで約3ヶ月ほど名古屋市内の某サウナでディスカッションを重ね互いに信頼関係を保てるメンバーになりました。

    勉強会では、全国の小売大手を招き意見を聞き、将来すべき事業の有り方提案が多数出ましたが、特化して出た意見は、将来必ずオークション流通が、キャスティングボードを握るのはあきらかであり、これをどう乗り切るか?が、最大テーマであった。・・・・・

    今回はここまで・・・・次回をお楽しみに・・・
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  • Thumbnail1970年以降の状況・・・いざなぎ景気と拠点開発

    いざなぎ景気とは、1965年から1970年にかけて5年近く続いた好景気。
    長らく第二次世界大戦後最長の景気回復期間とされてきたが、2002年1月を底に回復を続けてきた景気拡大が2006年10月時点でいざなぎ景気とならぶ57ヵ月となっている。いざなぎ景気という名称は、神武景気や岩戸景気を上回る好況という意味を込めて名付けられた。

    1960年代半ばのいざなぎ景気時代には、カラーテレビ (Color television)・クーラー (Cooler)・自動車 (Car) の3種類の耐久消費財が新・三種の神器として喧伝された。

    私共の会社も、いざなぎ景気の恩恵を受けてか?順調な業績で維持し・・・真面目に・コツコツ控えめにから・・・
    真面目に・コツコツチャレンジしよう!と変わり、大和通りセンターを閉店し、現在本社がある柏井町へ進出しました。
    上画像は柏井町進出の概念図

    上画像は春日井センターの展示場


    上画像は、進出後数年経過した春日井センターです。

    今回はここまで・・・・次回をお楽しみに・・・目次へ戻る

  • 後藤 勝章 wrote a new post on the site お知らせ 13年 1か月前

    アップルをご利用頂くお客様へ以下の要領で対応させていただきます。 1;買取査定の流れとおおよそのお時間 ■受付(5分) テーブルにある受付票のご記入をおねがいいたします。 ■ヒアリング(10分) 受付票を基に担当者がご売却の動機、お車の状態などいくつかヒアリングさせていただきます。 ■お車の査定(10分) お車の状態を基に価格をお調 […]

  • Thumbnailスタート当初の状況・・・銀行取引
    ここでスタート当初に戻ってこんなこともあった話をします。
    会社を経営するには銀行の口座が無くては経営が出来ません。
    そこで近くの銀行であるT銀行を訪問して当座預金の口座を作ってくださいと頼んだところ、最初のひと言が簡単に出来ませんよ!と言われ・・・
    続いて「なんだかんだ」と条件を提示され取り組みたくない雰囲気でしたから、もう結構です!と言ってT銀行を出た。
    これは困ったことなったと思ったが、気を取り直してすぐ隣のO銀行へ行き同じ事を頼んだところ、はい結構ですよ!すぐ作りますから2~3日後に来て下さい!と快く対応してくれた。
    この時の感謝の気持ちは今でも忘れませんでした。

    その後、我社の業績も順調に推移していった。数年経ってからT銀行より取引を要望する営業が度々訪れたが「O銀行だけで十分です」と言って断った。
    この状態は20年以上続いたが、別なルートから強い要請があり現在では別の支店と取引してます。

    このこと(T銀行の対応)は、私にとって反面教師であったと思い感謝してます。目次へ戻る

  • Thumbnail当初以降の店舗開発の状況・・・本社の拡張と第2拠点開発

    昭和47年から49年にかけて、徐々に業績も向上しつつある時、隣接の地主から土地を買って欲しいとの話から工場の北側の約20坪を買うことになり工場が少し拡張できました。これで本社は約100坪になりました。

    その後暫くして、今度は隣接の土地約100坪の土地の購入依頼の話があり、その当時は土地価格バブルが起きつつある時代で有った為、買いますと返事をしました。

    その土地はカエルやヘビがいる沼地であり、さらには旧地主の土蔵が建っており造成には大変でしたが、お陰で当時としては立派な展示場が出来ました。
    その結果はそれまでの約3倍程売れるようになりました。

    それから1年程経過し昭和49年に今度は本社の北西の場所大和通りにて知り合いから土地を貸すからこちらでも車の展示したらどうか?・・・・と誘われ じゃやろうかと
    大和通りに第2展示場進出しました。

    これで2拠点合計で月販約45台が売れるセンター経営が出来るまでになりました。


    当時の高級車日産セドリック
    今回はここまで・・・・次回をお楽しみに・・・

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  • Thumbnail当初以降の店舗開発の状況・・・ゴトウスバル勝川店として独立創業。

    1970年(昭和45年)にゴトウスバル勝川店として独立創業しました。
    創業したとは言え、当時国道19号線沿いの2階建の木造の古民家での創業であったため店舗用に改造(展示車を入れるため柱を取り補強した)古民家だからトラックが通過するたび2階ではガタガタゆれた生活でした。

    その頃の生活では結婚後間もない妻(現在の専務)には同居の社員を含む「食事・洗濯・接客・事務等」を全てまかないながらの生活で、大変な苦労をかけ申し訳なく思っております。(今さらながら感謝・感謝です)

    そんな生活の中で生まれたのが長男(現在の社長)でしたから、よちよち歩きの時点から作業場が大好きでつなぎ姿のスッタフと油まみれになって育ちました。その影響か今でも車大好き人間です。

    と言うわけで、スタート当初はぼろぼろの木造船の船出となりましたが、やりがいと楽しさがありました。

    今回はここまで・・・・次回をお楽しみに・・・

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  • Thumbnail当時の状況・・・プライスボード
    現在ほど中古車販売店が多くはなかったが、その当時の販売店(殆んどが修理屋さんの多くであり)販売用としての在庫は持っていたが1~3台の少数在庫であり、フロントガラスに「売り物」と書いてある場合は良い方で入口近くに車を置いてあるだけだった。
    当時は現在より中古車が仕入難で中古車の発生源は大手のディラーしかありませんでした。
    名古屋の大手の中古車仕入会社は東京の大手ディラーへ毎日日参して関係を作り名古屋まで輸送していたようです。
    だから中古車は世に言う「宝の山」であり売り手市場であった。
    ある修理屋さんとお客のやりとり 以下の当時のクラウン(イメージ図)の商談

    お客;このクラウンは売り物なの?
    修理屋;欲しかったら売ってもいいよ!
    お客;幾らで売ってくれるの?
    修理屋;幾らで買ってくれるの?
    お客;値段は解らないが50万位でどう!
    修理屋;馬鹿言ったらいかん。最低で80万出してくれ!
    お客;お金をかき集めてくるが80万は無理だから75万にしてよ!
    修理屋;しょうがないなじゃ75万で売ってあげるよ!
    こんな感じでした。
    自分としてはそんな駆け引きは出来ないから操業当時基本理念で「真面目に・コツコツ・一生懸命」で行こうと考えた。・・・・そうだフロントガラスに紙に価格を書いたプライスボードをはろう!

    このことは当時としては画期的なことのようで多くのお客様から・・・この地区で価格を表示している店はあなたの店舗だけだ・・・・と喜ばれました。
    そして買って頂いたお客様から紹介を頂き徐々に販売数が増加して行きました。
    今回はここまで・・・・次回をお楽しみに・・・
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