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後藤 勝章 wrote a new blog post 車と共に48年「わたしの自叙伝」その12 in the group
ゴトウスバル本社: 13年 5か月前
1970年以降の状況・・・いざなぎ景気と拠点開発
いざなぎ景気とは、1965年から1970年にかけて5年近く続いた好景気。
長らく第二次世界大戦後最長の景気回復期間とされてきたが、2002年1月を底に回復を続けてきた景気拡大が2006年10月時点でいざなぎ景気とならぶ57ヵ月となっている。いざなぎ景気という名称は、神武景気や岩戸景気を上回る好況という意味を込めて名付けられた。1960年代半ばのいざなぎ景気時代には、カラーテレビ (Color television)・クーラー (Cooler)・自動車 (Car) の3種類の耐久消費財が新・三種の神器として喧伝された。
私共の会社も、いざなぎ景気の恩恵を受けてか?順調な業績で維持し・・・真面目に・コツコツ控えめにから・・・
真面目に・コツコツチャレンジしよう!と変わり、大和通りセンターを閉店し、現在本社がある柏井町へ進出しました。
上画像は柏井町進出の概念図上画像は春日井センターの展示場
今回はここまで・・・・次回をお楽しみに・・・目次へ戻る
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後藤 勝章 wrote a new blog post 車と共に48年「わたしの自叙伝」その11 in the group
ゴトウスバル本社: 13年 5か月前
スタート当初の状況・・・銀行取引
ここでスタート当初に戻ってこんなこともあった話をします。
会社を経営するには銀行の口座が無くては経営が出来ません。
そこで近くの銀行であるT銀行を訪問して当座預金の口座を作ってくださいと頼んだところ、最初のひと言が簡単に出来ませんよ!と言われ・・・
続いて「なんだかんだ」と条件を提示され取り組みたくない雰囲気でしたから、もう結構です!と言ってT銀行を出た。
これは困ったことなったと思ったが、気を取り直してすぐ隣のO銀行へ行き同じ事を頼んだところ、はい結構ですよ!すぐ作りますから2~3日後に来て下さい!と快く対応してくれた。
この時の感謝の気持ちは今でも忘れませんでした。その後、我社の業績も順調に推移していった。数年経ってからT銀行より取引を要望する営業が度々訪れたが「O銀行だけで十分です」と言って断った。
この状態は20年以上続いたが、別なルートから強い要請があり現在では別の支店と取引してます。このこと(T銀行の対応)は、私にとって反面教師であったと思い感謝してます。目次へ戻る
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後藤 勝章 wrote a new blog post 車と共に48年「わたしの自叙伝」その10 in the group
ゴトウスバル本社: 13年 6か月前
当初以降の店舗開発の状況・・・本社の拡張と第2拠点開発
昭和47年から49年にかけて、徐々に業績も向上しつつある時、隣接の地主から土地を買って欲しいとの話から工場の北側の約20坪を買うことになり工場が少し拡張できました。これで本社は約100坪になりました。
その後暫くして、今度は隣接の土地約100坪の土地の購入依頼の話があり、その当時は土地価格バブルが起きつつある時代で有った為、買いますと返事をしました。
その土地はカエルやヘビがいる沼地であり、さらには旧地主の土蔵が建っており造成には大変でしたが、お陰で当時としては立派な展示場が出来ました。
その結果はそれまでの約3倍程売れるようになりました。それから1年程経過し昭和49年に今度は本社の北西の場所大和通りにて知り合いから土地を貸すからこちらでも車の展示したらどうか?・・・・と誘われ じゃやろうかと
大和通りに第2展示場進出しました。これで2拠点合計で月販約45台が売れるセンター経営が出来るまでになりました。
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後藤 勝章 wrote a new blog post 車と共に48年「わたしの自叙伝」その9 in the group
ゴトウスバル本社: 13年 6か月前
当初以降の店舗開発の状況・・・ゴトウスバル勝川店として独立創業。
1970年(昭和45年)にゴトウスバル勝川店として独立創業しました。
創業したとは言え、当時国道19号線沿いの2階建の木造の古民家での創業であったため店舗用に改造(展示車を入れるため柱を取り補強した)古民家だからトラックが通過するたび2階ではガタガタゆれた生活でした。その頃の生活では結婚後間もない妻(現在の専務)には同居の社員を含む「食事・洗濯・接客・事務等」を全てまかないながらの生活で、大変な苦労をかけ申し訳なく思っております。(今さらながら感謝・感謝です)
そんな生活の中で生まれたのが長男(現在の社長)でしたから、よちよち歩きの時点から作業場が大好きでつなぎ姿のスッタフと油まみれになって育ちました。その影響か今でも車大好き人間です。
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後藤 勝章 wrote a new blog post 車と共に48年「わたしの自叙伝」その8 in the group
ゴトウスバル本社: 13年 6か月前
当時の状況・・・プライスボード
現在ほど中古車販売店が多くはなかったが、その当時の販売店(殆んどが修理屋さんの多くであり)販売用としての在庫は持っていたが1~3台の少数在庫であり、フロントガラスに「売り物」と書いてある場合は良い方で入口近くに車を置いてあるだけだった。
当時は現在より中古車が仕入難で中古車の発生源は大手のディラーしかありませんでした。
名古屋の大手の中古車仕入会社は東京の大手ディラーへ毎日日参して関係を作り名古屋まで輸送していたようです。
だから中古車は世に言う「宝の山」であり売り手市場であった。
ある修理屋さんとお客のやりとり 以下の当時のクラウン(イメージ図)の商談
お客;このクラウンは売り物なの?
修理屋;欲しかったら売ってもいいよ!
お客;幾らで売ってくれるの?
修理屋;幾らで買ってくれるの?
お客;値段は解らないが50万位でどう!
修理屋;馬鹿言ったらいかん。最低で80万出してくれ!
お客;お金をかき集めてくるが80万は無理だから75万にしてよ!
修理屋;しょうがないなじゃ75万で売ってあげるよ!
こんな感じでした。
自分としてはそんな駆け引きは出来ないから操業当時基本理念で「真面目に・コツコツ・一生懸命」で行こうと考えた。・・・・そうだフロントガラスに紙に価格を書いたプライスボードをはろう!
このことは当時としては画期的なことのようで多くのお客様から・・・この地区で価格を表示している店はあなたの店舗だけだ・・・・と喜ばれました。
そして買って頂いたお客様から紹介を頂き徐々に販売数が増加して行きました。
今回はここまで・・・・次回をお楽しみに・・・
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