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後藤 敦 wrote a new blog post クルマ好きなら要チェック?海外BBCの無茶な車番組 in the group ゴトウスバル本社: 13年 1か月前
初めまして、こんにちは!本社の後藤 敦と申します。初めてのブログアップとなります。
以後お見知り置きを・・・
今回はあるテレビ番組を今回紹介いたします。 http://www.bsfuji.tv/topgear/
その名は”TOP GEAR”日本ではBSデジタルの”BSフジ”チャンネルで放送されています。
地上波で見れないのは残念なんですが、DVD等も発売されるほどの人気番組。
某有名動画サイトにも専用チャンネルがありますのでぜひチェックしてみて下さい。
その内容は・・・
その①
車で船を作ってドーバー海峡を横断!イギリスから海を越えてフランスに行ってみよう!
http://www.youtube.com/watch?v=WTVPPTV-bQMその②
これからは宇宙の時代?古い三輪車でスペースシャトルを作ってみよう!
http://www.youtube.com/watch?v=_b4WzWFKQ20その③
犬ぞり×ハイラックス対決!北極まで車で行ってみよう!
http://www.youtube.com/watch?v=WNkvASxfEWQナドナド・・・BBCと言えば日本ではNHKにあたる国営放送。お国柄なのかもしれませんがよくこんな番組をOKしたな・・・と思える程の過激な内容です。
秋の夜長のお供となれば幸いです。それではまた・・・
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後藤 勝章 wrote a new blog post 車と共に48年「わたしの自叙伝」その19 in the group ゴトウスバル本社: 13年 1か月前
オークションオープン以降の状況・・・いよいよアップルの展開の開始
オークションの立上から、1年後(平成元年)オークション事業は順調に推移して行ったが、小売中心の商売をしている立場で有りながら、一方ではオークションへの協力として出来るだけ多くの出品も必要である。
その点を認識して、勉強会の時点にテーマであったもう一つの事業である、車買取事業の立上の必要性を感じ準備に取りかかった。理想的には、小売屋が小売屋の為のオークション事業がテーマだったから、C○Aの全役員会社が一斉にスタートしたかったが、各企業の事情もあってスタート当初は3社でスタート(同時オープン)した。店舗名は「アップル○○○店」時は、平成元年9月でした。
上画像のロゴマークに位置が同時オープンした3店舗です。
アップル展開についての感想
1;当初、全国的にも買取チェーンを事業化している事を見聞した覚えが無く、初めての事でしたので心配しながらオープンしました。
2;オープンは春日井・天白・豊田の3店舗が同時にスタート初期の目的のC○A支援についてはある程度自信が有ったが事業として特に採算が取れるか? が心配でした。
3;オープン広告は中日スポーツの前5段の広告だけでしたがオープン後の2~3日は1日当たり電話が100~150本と対応が大変でしたと店長が言っていました。
4;当社の創業春日井店の店長は、Y・T社員が担当したが、予想を超える反応に仰天した。
5;オープンで自信を付けてからは、積極的に店舗展開をして以後は、小牧店・尾張旭店・多治見店・岩倉店と開発して行きました。これ以降は暫く店舗展開について書かせて頂きます。
今回はここまで・・・・次回をお楽しみに・・・目次へ戻る
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後藤 勝章 wrote a new blog post 車と共に48年「わたしの自叙伝」その18 in the group ゴトウスバル本社: 13年 1か月前
1985年以降の状況・・・役員はオープン日を含めて暫くはこんな事もやっていました。
オークションの良し悪しは、まず出品台数次に成約台数です。
何が何でも成功させたいと思って始めた訳ですから出品台数・成約台数の動向で一喜一憂していました。1988年05月に第1回オークション開催をしましたが、この時は3ヶ月も前からお願い営業しておりましたから目標をオーバーしましたがその後は徐々に出品台数が減り始めました。
そんな時急いでとった行動は知り合いの会員に電話で出品のお願いする一方で積載車が到着する場所に役員が待機し積載車が来ると運転手に暑い中ご苦労さんと声をかけ荷下ろしを手伝い、ジュース等をサービスしここで一服してくださいと伝えへ出品ヤードまでの移動運転を手伝っていました。
そうしたことを続けている内に積載車の運転手には評判が良くなって行きました。
その他評判が良くなるだろうと思われることは積極的に行動しました。
そのようなことが効してか月を重ねる度に業績は好転していきました。上画像は現在のC○A中部会場のイメージパースです。
そして1年経過した頃、もうこの調子で推移して行けば起動に乗るだろうと判断し当初の懸案事項である小売屋さんにより良い品を集めて提供していくオークションにと取り組み始めました。・・・・それは・・・今回はここまで・・・・次回をお楽しみに・・・
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後藤 勝章 wrote a new blog post 車と共に48年「わたしの自叙伝」その16 in the group ゴトウスバル本社: 13年 1か月前
1985年以降の状況・・・オークション事業の立ち上げ
前回では、オークション流通が、キャスティングボードを握った場合、どう乗り切るか?が、最大テーマであったからその続きを書きます。
幾つかの提案の内絞り込んだ案は・・・
①オークション事業を自分たちで立ち上げること。
②オークション仕入に変わる仕入ルートの開発(ユーザー買取等)上記の2点に絞りさらにオークション開発事業に早速取組むことになりました。
そこで各メンバーが持ちよった候補地の中で豊田に開発可能な用地があるという事で、各担当を決め早速開発に着手しました。当然ながら開発は難航し時には役所へ時には地主宅へ時には地元の議員などあらゆる関係者に合い折衝し、約1年位交渉&折衝が続いた。
数ヵ月後ようやく許可が出され以後は、工事の段取り・システムの研究&契約 等、各役員が分担して進めたが会員開発だけは役員全員で各地域を回り飛び込み営業を行った。
また既に開催しているオークション上へは直接出かけてパンフレット配りを行った。
昭和63年に、現在のC○Aが誕生しました。
今回はここまで・・・・次回をお楽しみに・・・
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後藤 勝章 wrote a new blog post 車と共に48年「わたしの自叙伝」その15 in the group ゴトウスバル本社: 13年 1か月前
1985年以降の状況・・・中古車の流通を変える、大変革の時代到来
以前は専業店の仕入先は殆んどが新車ディーラーの下取車を一元管理している新車のディーラーの中古車部であり、そこに中古車販売専業店のオーナーが出かけていって中古車部の上司&担当者との付き合いが旨い業者は優先的に儲かる車を仕入れる事が出来るため、各業者は毎日ディーラー周りをしていました。
しかし、この頃からから中古車の流通の有り方が大きく変化のきざしが現れだした。
そのような流れを大きく変えた流通方法はオークション事業の急成長でした。当時の私は、仕入担当として急成長をしているU○Sオークションに参加していた時、
小売中心の業者達がオークション主体流通時代の到来を予測して将来の小売業者に与える影響等を研究するグループの結束を呼びかけられ将来の事業の有り方はどう有るべきか?というテーマを基に毎週オークション終了後に場所を移して勉強会を実施しました。メンバーは、本音で話し合えるであるべきとの条件で企業機密書類まで見せ合えるメンバーに絞込み結果7社になりました。
1度失敗した共同事業を再度チャレンジする気になったのは、メンバー選びが大切なことで約3ヶ月ほど名古屋市内の某サウナでディスカッションを重ね互いに信頼関係を保てるメンバーになりました。勉強会では、全国の小売大手を招き意見を聞き、将来すべき事業の有り方提案が多数出ましたが、特化して出た意見は、将来必ずオークション流通が、キャスティングボードを握るのはあきらかであり、これをどう乗り切るか?が、最大テーマであった。・・・・・
今回はここまで・・・・次回をお楽しみに・・・
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ゴトウケンジ です。
新HPになりましたので、アップル春日井中央店からより本社へ異動してのブログとなりました。
これって、知っていますか?
そうです、かなりの年代の方は既知のポイントセットです。
え、ポイント って何???
その昔は、自動車のエンジン不調といえば、
プラグ ・ ポイント ・ デスビーローター ・ デスビーキャップ ・ プラグコード がほとんどの原因でした。
その、ポイントは消耗品のため、どこの修理工場や自動車屋さんでも常備品でした。
このてんとう虫号もやっぱり相当に消耗し、もはや寿命の感でした。
さて、ここで何とか部品商さんへTEL・・・・・・4日間かかって新品商品が届きました。
なんと、価格は400円也
ありがとう細野さん、&デンソーさん 43年前の価格じゃないでしょうか、当時の私の給料は31500円でしたよ。
ポイントの役割はネットで調べてください、私より正確な説明がたくさんあると思います。
ちなみに、このポイントセットの中古品がYahoo のオークションで1500円で売っていました、買う人かわいそーすきるね!!
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後藤 勝章 wrote a new blog post 車と共に48年「わたしの自叙伝」その12 in the group ゴトウスバル本社: 13年 1か月前
1970年以降の状況・・・いざなぎ景気と拠点開発
いざなぎ景気とは、1965年から1970年にかけて5年近く続いた好景気。
長らく第二次世界大戦後最長の景気回復期間とされてきたが、2002年1月を底に回復を続けてきた景気拡大が2006年10月時点でいざなぎ景気とならぶ57ヵ月となっている。いざなぎ景気という名称は、神武景気や岩戸景気を上回る好況という意味を込めて名付けられた。1960年代半ばのいざなぎ景気時代には、カラーテレビ (Color television)・クーラー (Cooler)・自動車 (Car) の3種類の耐久消費財が新・三種の神器として喧伝された。
私共の会社も、いざなぎ景気の恩恵を受けてか?順調な業績で維持し・・・真面目に・コツコツ控えめにから・・・
真面目に・コツコツチャレンジしよう!と変わり、大和通りセンターを閉店し、現在本社がある柏井町へ進出しました。
上画像は柏井町進出の概念図上画像は春日井センターの展示場
今回はここまで・・・・次回をお楽しみに・・・目次へ戻る
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後藤 勝章 wrote a new blog post 車と共に48年「わたしの自叙伝」その11 in the group ゴトウスバル本社: 13年 1か月前
スタート当初の状況・・・銀行取引
ここでスタート当初に戻ってこんなこともあった話をします。
会社を経営するには銀行の口座が無くては経営が出来ません。
そこで近くの銀行であるT銀行を訪問して当座預金の口座を作ってくださいと頼んだところ、最初のひと言が簡単に出来ませんよ!と言われ・・・
続いて「なんだかんだ」と条件を提示され取り組みたくない雰囲気でしたから、もう結構です!と言ってT銀行を出た。
これは困ったことなったと思ったが、気を取り直してすぐ隣のO銀行へ行き同じ事を頼んだところ、はい結構ですよ!すぐ作りますから2~3日後に来て下さい!と快く対応してくれた。
この時の感謝の気持ちは今でも忘れませんでした。その後、我社の業績も順調に推移していった。数年経ってからT銀行より取引を要望する営業が度々訪れたが「O銀行だけで十分です」と言って断った。
この状態は20年以上続いたが、別なルートから強い要請があり現在では別の支店と取引してます。このこと(T銀行の対応)は、私にとって反面教師であったと思い感謝してます。目次へ戻る
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後藤 勝章 wrote a new blog post 車と共に48年「わたしの自叙伝」その10 in the group ゴトウスバル本社: 13年 2か月前
当初以降の店舗開発の状況・・・本社の拡張と第2拠点開発
昭和47年から49年にかけて、徐々に業績も向上しつつある時、隣接の地主から土地を買って欲しいとの話から工場の北側の約20坪を買うことになり工場が少し拡張できました。これで本社は約100坪になりました。
その後暫くして、今度は隣接の土地約100坪の土地の購入依頼の話があり、その当時は土地価格バブルが起きつつある時代で有った為、買いますと返事をしました。
その土地はカエルやヘビがいる沼地であり、さらには旧地主の土蔵が建っており造成には大変でしたが、お陰で当時としては立派な展示場が出来ました。
その結果はそれまでの約3倍程売れるようになりました。それから1年程経過し昭和49年に今度は本社の北西の場所大和通りにて知り合いから土地を貸すからこちらでも車の展示したらどうか?・・・・と誘われ じゃやろうかと
大和通りに第2展示場進出しました。これで2拠点合計で月販約45台が売れるセンター経営が出来るまでになりました。
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後藤 勝章 wrote a new blog post 車と共に48年「わたしの自叙伝」その9 in the group ゴトウスバル本社: 13年 2か月前
当初以降の店舗開発の状況・・・ゴトウスバル勝川店として独立創業。
1970年(昭和45年)にゴトウスバル勝川店として独立創業しました。
創業したとは言え、当時国道19号線沿いの2階建の木造の古民家での創業であったため店舗用に改造(展示車を入れるため柱を取り補強した)古民家だからトラックが通過するたび2階ではガタガタゆれた生活でした。その頃の生活では結婚後間もない妻(現在の専務)には同居の社員を含む「食事・洗濯・接客・事務等」を全てまかないながらの生活で、大変な苦労をかけ申し訳なく思っております。(今さらながら感謝・感謝です)
そんな生活の中で生まれたのが長男(現在の社長)でしたから、よちよち歩きの時点から作業場が大好きでつなぎ姿のスッタフと油まみれになって育ちました。その影響か今でも車大好き人間です。
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後藤 勝章 wrote a new blog post 車と共に48年「わたしの自叙伝」その8 in the group ゴトウスバル本社: 13年 2か月前
当時の状況・・・プライスボード
現在ほど中古車販売店が多くはなかったが、その当時の販売店(殆んどが修理屋さんの多くであり)販売用としての在庫は持っていたが1~3台の少数在庫であり、フロントガラスに「売り物」と書いてある場合は良い方で入口近くに車を置いてあるだけだった。
当時は現在より中古車が仕入難で中古車の発生源は大手のディラーしかありませんでした。
名古屋の大手の中古車仕入会社は東京の大手ディラーへ毎日日参して関係を作り名古屋まで輸送していたようです。
だから中古車は世に言う「宝の山」であり売り手市場であった。
ある修理屋さんとお客のやりとり 以下の当時のクラウン(イメージ図)の商談
お客;このクラウンは売り物なの?
修理屋;欲しかったら売ってもいいよ!
お客;幾らで売ってくれるの?
修理屋;幾らで買ってくれるの?
お客;値段は解らないが50万位でどう!
修理屋;馬鹿言ったらいかん。最低で80万出してくれ!
お客;お金をかき集めてくるが80万は無理だから75万にしてよ!
修理屋;しょうがないなじゃ75万で売ってあげるよ!
こんな感じでした。
自分としてはそんな駆け引きは出来ないから操業当時基本理念で「真面目に・コツコツ・一生懸命」で行こうと考えた。・・・・そうだフロントガラスに紙に価格を書いたプライスボードをはろう!
このことは当時としては画期的なことのようで多くのお客様から・・・この地区で価格を表示している店はあなたの店舗だけだ・・・・と喜ばれました。
そして買って頂いたお客様から紹介を頂き徐々に販売数が増加して行きました。
今回はここまで・・・・次回をお楽しみに・・・
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